「写真」は2025年に終わるのか

案外早く、デジタル写真の時代は終わるのだな、と思っている。

フィルム写真が誕生し一般的に使われるようになった19世紀半ばごろで、それから150年ほどがフィルム写真の時代。デジタル写真が一般化したのは20世紀末なので、今までで四半世紀ほど、多めに見ても30年だ。そのデジタル写真の時代がそろそろ終わりそうだ。生成AIに駆逐されつつある。というより生成AIの登場でデジタル写真が「写真」であることを保証されなくなってしまった。

もともとデジタル写真とCGの区別はあいまいだった。データ上は同じJPEGやPNGのフォーマットで配布され、パソコンやスマホなどのディスプレイに表示される。僕の記憶では、80年代末のパソコンのプロモーションで使われていた、ツタンカーメン像の写真をスキャンしたデジタル画像は「写真」ではなく「コンピュータグラフィックス」として認識されていたと思う。本来の定義がどうなのかは専門家に譲るとしても、一般には「写真」というのはカメラによる撮影行為とセットでそう認識されていたように思う。つまり一般には CASIO QV-10 からがデジタル写真だ。

このデジタルカメラで撮影されたデータをを Ligihtroom や Photoshop で加工するのは写真家ならば当たり前の行為だ。これは現像処理やフォトレタッチと呼ばれる、フィルム写真にもあったプロセスだ。そのプロセスをデジタル化しただけのことだ。しかし、このレタッチがどこまで許容されるのかについては様々な議論があった。「ほくろを取り除いたり皺を消したりするのはOKだが、体のシェイプを変えるのはNGである」とか「いや色味を変えるのはOKだが描いたりコピペしたしるするのは一切NGである」とか。しかし、プリクラやその延長線上の写メ(死語)の進化から見るに、最終的には一切の加工はOKということになっているようだ。

そこに、生成AIの登場である。

生成AIが出力した画像は写真なのかそうでないのか。これは難しい問題だ。先ほどの定義に基づけば、カメラによる撮影行為が行われていないのであればそれは写真ではない、と言えるかもしれない。しかし、既存の写真をAIが加工する場合はどうか? その場合には前述の定義でも「写真」なのではないだろうか? AIによって生成された数々のフェイク画像はやはり「写真」ではあるのではないだろうか。

僕がこれを書いているのはAIを批判するためではない。そうではなく、生成AIの登場によって「写真」の定義を見直さなければならないか、あるいは写真家が立ち位置を変えなければならないのではないか?ということを言いたいのだ。

ロラン・バルトは『明るい部屋』の中で、写真の本質は思い出や美しさにあるのではなく「かつてそこにあった」ことを保証する点にある、と言った。僕はこのバルトの言葉にとても感銘を受けた。なぜなら僕はデジタル写真の登場以来「これは写真としての完全性に欠いている」と常々感じていたからだ。このデジタル写真への違和感の理由をバルトはデジタル写真が登場する以前に言語化していた。フィルムの存在は、そのフィルムがその写っている物の目の前にその時実際に存在していたことを保証する。デジタル写真でもその場に光学センサーが実在しただろうが、そのセンサーを僕らは写真として保管しているわけではない。写った対象だけを見ればフィルム写真であろうがデジタル写真であろうが似たようなものかもしれないが、実存性としては全く異なる。これが僕がフィルム写真をやめない大きな理由である。僕は今でも、子供の写真を、時々ではあるがフィルムで撮影するようにしている。

デジタル写真もブロックチェーンや電子透かしの技術を使うことで正規のものであることはある程度保証できるようになった。しかしそれらの技術はコピーでないことを保証するのみで「かつてそこにあった」を保証するわけではない。

この「デジタル写真は実在を担保できない」という問題は、それでもそれほど大きな問題になることはなかった。生成AIが登場するまでは。

これからのデジタル写真は「これは生成AIによるものかもしれない」という疑念と常にセットで配布されることになるだろう。そして思い出写真の中にさえもある程度のフェイクが混入し、「かつて存在しなかった」ものがまるであったかのように写し出され、個人の歴史は改ざんされ、修正されるだろう。目の前にある写真が撮影されたままであるか改ざんされたものであるかはそれほど問題ではなくなるだろう。「デジタル写真である限りフェイクかもしれないという疑念とセットである」ということ自体がデジタル写真の価値を下げていくだろう。本物と見まがうほどの精巧なAI生成画像が価値を上げていくのと対照的に。

繰り返すが、これは生成AI批判ではない。デジタル写真批判である。AI生成画像(「写真」ではない)とフィルム「写真」は可能だが、デジタル「写真」は不可能である、という批判である。

これが「写真」の終わりを意味するのか、それともフィルム写真の再評価を促すのかはまだわからない。けれども、少なくとも、フィルムで撮ることの価値は間違いなく上がった。そのことの重要性を気にしている人は相変わらず少ないかもしれないけど。

※ここではあえてフィルムでないアナログ写真(マビカなど)のことを無視しているが、これはすでに市場から消滅しているためだ。念のために言っておくと、この問題の根幹は「アナログ vs デジタル」ではない。「物 vs データ」である。

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TOMOKI++

TOMOKI++ / H.Wakimoto